2015.11.27

身を修めなさい

となるご婦人から「シュウシン」という言葉を教えてもらった。

身を修める、と書いて「修身」。戦前の道徳の時間のことのようだ。

これはあくまで私の偏見だけど、「道徳」はマナー的なこと、人としてこうあるべきだよね、といった理想的姿をイメージしてしまう。

しかし「修身」は、たとえば野生児のような暴れん坊や、基本的善し悪しがハッキリしない者であっても、「おまえはこうして自分の身を修めなさい」と、神様、もしくは人間であっても経験を積んだお坊さん(寅さんにでてくる笠智衆のような)からの有り難い言葉という感じ。この言葉だけで私の心にピリッとくるものがあった。

私はたいがい時間の使い方をまちがえる愚か者だ。大事なことを後回しにして「今日やるべきことリスト」を一日に何回も書いているのだから。自分の身の修め方がいまだにちっとも分かっていないのだ。


2015.11.11

家族に乾杯

中央線に乗っていたら、今どき珍しい、素晴らしい家族がいた。

年の頃は30代後半の夫婦に2才くらいの可愛らしい男の子。この2才が、私のとなりの席が空いたことで、「ア〜ア〜」と言いながら座りたいよ〜とアピール。ちょうどそのとなりも空いたのでお母さんと一緒に座った。

その時、お父さんは、ナント「2才」の靴と靴下を脱がせたのだった。そして自ら手に持って二人を座らせた。

「なぜ靴下まで!?」と思ったけれど、まあ今どきキチンと靴を脱がせて、シートや周りの人を汚すことのないように、なんて親は滅多にいない。

次に2才は窓からの景色を眺めようと、後ろ向きに座ったのだが、お母さんはきとんと足を揃えさせ、そっと2才の体に手を添え、支えるようにした。

そのうち興奮した2才が「ア〜ア〜」と言い出すと、お父さんはややキッパリした口調で「静かにしなさい、じっとしていなさい」と言った。その声はヒステリックではなく、とても冷静だった。

私はとっても感動した。私よりずっとずっと年下のご夫婦が、私が子供の頃の親のように、キチンとしつけておられるではないか!! 周りに気配りできないバカ親ばかりじゃない。世の中捨てたもんじゃないな。


2015.11.1

結局のところ

今日から11月! とハリキッテいた矢先に風邪をひいた。ダンナの様子も少々おかしい。目がドロンとしている。振り返ればこの一年、二人ともガクンと体力が落ちたように思う。

すぐグッタリし、咳き込んだり、やれ口内炎だ、節々が痛い、腰が痛い、めまいがすると愚痴りあったり、励まし合ったりしてきた。そして具合が良くないにも関わらず病院に行くことはなく、市販の薬でだましだましやってきた。だって面倒くさいんだもん。

病院となると実に半日仕事になってしまうから無理です。「受付時間の30分前には到着して一番をとらないとね」などと病院ツウの意見を聞くこともあるが、そのフットワークの軽さはどこからくるのだろう。

ちょっと調子が変だなと思ったらスッと病院に行ける人はえらいな。結局のところ、私は病院がコワイのである。年を重ねても、コワイものはコワイ。そういうことです。


2015.10.24

国立の記憶

久々に国立の駅で降りた。駅はすっかり建て替えられて、アナログ感はゼロ。ビックリだった。

生まれて初めてこの駅で降りたのは、高校生の頃。まだ土の道があって、樹々はごく自然にそこに存在し、マンションもほとんどなかったから、空がいっぱい見えていた。あの時のすがすがしさはないけれど、でもキレイで便利な街になったのですね。

20代になって、北鎌倉にお気に入りの喫茶店があった。その店の名は「邪宗門」。当時、素敵なコーヒー店があると友達に誘われ、わざわざ北鎌倉まで訪れたのだった。風のうわさに、荻窪・国立・伊豆の下田にも同じ名の店があると知り、さっそく国立の店にも行ってみた。

後に荻窪にも下田にも足を運んでコーヒーを飲んだ記憶がある。荻窪は近いということもあって、30代、40代になっても、時おり一人で足を運んだ。一杯のコーヒーをすすりながら、すりへってしまった自分の中の「ワクワク感」を補充した。

なつかしい記憶…。

ダンナに「国立の駅もスッカリ変わっちゃったね」と言ったら、

「そうだね、あ、でもコンビーフの広告はあったでしょ?! ホームからすぐ見えるところの…」

と、延々と説明してもらったけど、サッパリわからない。

ナンダヨ、コンビーフの広告って…?


2015.10.9

負けた

時おり人は、要領を得ない者に対してのイラダチを隠せないときがあるのだろう。

先日、とあるコンビニで「スピードくじ」をひくことになった。普通に買い物をして、おつりをしまっていたら、

「ハイ! ひいて下さい!」

と突然、目の前に箱がさし出された。「ハイ! ひいて!」のオーラ全開。おずおずと箱に手を入れ、紙片を1枚引き上げると、

「ハイ! めくって下さい!」

老眼の私は必死にめくった。しかし、めくったところで字がいっぱいで読めやしない。ボヤッとしていると、

「ハズレです」。私「……」

気休めのティッシュがもらえるわけでもなく、スピードくじは、その名の通り、あっという間に終了となった。望んでもいないクジをひかされ。ハズレを宣告されるという辱め。買い物をしたお客様に対しての「ありがとうございます」の雰囲気は皆無である。

私の気分は「負けた」であった。でも一体、何に負けたのだろう? 店員さんとくじに負けたのだろう。

そういえば、今朝の占いは「運気低迷」であった。


2015.9.30

9月の終わりに

湿度、気温、ともに丁度良く、すがすがしい朝。なんとも穏やかで、せわしない私の心も、つかの間、平和が訪れる。

「防災の本」に始まった9月。実際その後に、豪雨や竜巻、河川の氾濫が関東を襲い、自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられる。この先、どんなことが待ち受けているのか、どんなことに遭遇するのか、まったくわからない。不安だ。

しかしその一方で、神々しいお月様を眺めることもできた。地球にとても近づいているらしく、いつもよりふっくらして臨場感溢れるお月様。心をうばわれ、しばし見入った。あのお月様を眺めるには、庵のような茶室がピッタリだ。

そうだ、部屋を片付けよう。そして、心の中も整理整頓しておこう。たった今の自分、身ひとつで眺めたい。こざっぱりさせて、自分の性分にしたがって、水のしずくが流れていくように生きていけたらいいナ。

今を味わって生きていたら、おのずと次の一歩が見えてくるような、そんなふうに暮らしてゆけたらいいナ。


2015.9.23

忘れがたき…

お彼岸には必ずおばあちゃんのお墓参りに行く。お寺は門前仲町にあって、日頃まったく縁がないのに、子供の頃から年に一度か二度、お彼岸に訪れるのである。まあ、お墓参りとはそんなものだろう。

おばあちゃんは関東大震災に遭遇している。当時、日本橋あたりにあった「東京薬品株式会社」というところに勤めていて、お昼を食べて休んでいたその時、突然、直下地震が襲ってきた。なんとか家にもどったけど誰もいない。もう、あたり一面火事で「火の雨」も降っている。鎌倉河岸の日本銀行のそばに避難して、どうしようもなくなって、みんな川に飛び込んだ。夕方から夜中までずっと川の中にいたんだよ、と話してくれた。

母の生まれは神田・神保町。するってェと私は三代続く江戸っ子かと思いきや、おばあちゃんはもともと郡山の人で、幼い頃に親に連れられて東京・神田に来たらしい。

母に、神保町のどのあたりか覚えてる? と訊くと、もう全然ちがう風景だからまったくわからない、子供だったし、その後麻布十番に引っ越したし、と言う。でも戦争が始まって、疎開して、東京大空襲、なんにもなくなっちゃった…という話になる。

私には、深川も神田も麻布もまったく縁がない。けれど母にとっては、記憶の中にあるふるさとの街…なんだナ。

先日も「もういつ死ぬかわからないから」と、タクシーに乗って麻布のあたりをグルッと見て回ったそうだ。でもやっぱり風景がちがっていてわからなかった…とさびしそうだった。

当時の風景は、母の頭の中にかすかに残っているだけ。こう坂道があって、その途中の家には有名なお相撲さんが住んでいたとか、近くの交番の若いおまわりさんが非番になると家に来て、一緒にお昼ご飯を食べたりしてた、おばあちゃんは面倒見のいい人だったから、と断片的に話してくれる。

私はただじっと聞いている。

不思議で大切な時間に思える。


2015.9.1

黄色い本

夜、家にもどってポストを開けると、黄色い本のようなものが入っていた。

結構しっかりした作りで、防災にまつわるタイトルが付いている。ムムム…なんだろう!? 新手のサギだろうか? うっかり開けたら大変なことになるとか…?

その日は捨てることもなく、開けることもなく、下駄箱の上にそっと置いておくことにした。

たしかに今日は防災の日。大正12年、関東大震災が起こった日である。その日にあわせてポストに入れられたのだろう。

考えてみれば「いつ大地震が起こっても!」とよく言われるけど、本気でそのことを考えているかといえば、疑わしい、いや、ほとんど考えていない。そして考えたくない…コワイから。どんな状況で大地震に遭遇するのだろう。

下駄箱の上に置かれた黄色い本は、とてもとても気になる存在だが、今日のところは見て見ぬふりで、布団をかぶって眠ってしまおう。

※後日、東京都が正式に配布しているものだと、テレビを見て知りました。


2015.8.25

悪役

私は菓子パンが好きだ。手作りパンとかの高級なやつではなく、スーパーに売ってる菓子パンだ。だが、菓子パンのことを良く言う人は少ない。保存料とかカロリーとか糖分とか、そういった点で、体にはよくないらしい。

だけどあれだけたくさん売ってるのだから、菓子パンをやめられない人はたくさんいるのだろう。私もその一人。若い頃も、菓子パンとオニギリとカップラーメンのような組み合わせで過ごすときもあった。親から見れば可哀想な食事だろうが、本人はとってもおいしくいただいていた。

何だって、同じようなものばかり食べたり、一度に大量に摂取するのはよくないだろう。だから、菓子パンだけが悪いわけではないのだが、なんとなくタバコと菓子パンは悪役になることが多く、わりがあわない立ち位置になってしまった。


2015.8.17

変わり目

暑さのピークは越したのだろうか。それでもやっぱり夜は寝苦しい。暑いし、いつものグズグズした反省がはじまり…やっと眠くなった頃、「咳き込み」が出るようになってしまった。

季節の変わり目だけ、私はよく咳き込む。突然の咳き込みほど対処に困るものはない。公共の場で他人様がまゆをひそめるほど咳がとまらなくなったことがあるけれど、苦しいやらうるさくて申し訳ないやら、ヤレヤレだった。

だから東京のオバチャンでもある私だが、カバンの中には常に「アメちゃん」をしのばせて出かけるようになった。

咳き込み、足元のふらつき、めまい、熱中症などなど、原因はわからないけど、自分の中に不安がめばえたとき、アメちゃんの存在は救いとなる。少なくともいったん落ち着こうとする自分になれる。

そんなわけで、暑くてもダメ、寒くてもダメ、そして季節の変わり目もなかなか手強い。


2015.7.28

信念のない夏

熱中症にまつわる健康番組を見過ぎてグッタリしている。

今まで気にしていた「塩分控えめ」「腹八分」。けれど、熱中症予防には「水分・塩分をしっかりとって」「食事もきちんととって」と言われると、なんだかもう本能のままに塩をバンバン使ってしょう油もケチらず、ごはんもおかわりしちゃおうぜ!! と、そんな気分になっている。

少し前まで、こまめに水を飲んでいたけれど、ここにきて大好きなアイスコーヒーやアイスクリームにうつつをぬかし、水に対して気持ちがおろそかになっていた。

この現実に心から反省するでもなく、かといって豪快にやりたい放題になる勇気もなく、中途半端に信念のない夏を過ごしている。しかしながら、信念と頑固の見分け方も難しい。

先日、「絶対にクーラーは使わない」と言い張るご婦人に出くわした。次世代の若者のことを考えたら、私のような年寄りは我慢しなければ、だってエライ学者さん達が地球温暖化をさけんでいるじゃありませんか!! とおっしゃる。

私はそんなことより、テキトーにクーラーを使って熱中症予防してほしかったけれど、そんなことを言ったら逆に怒られそうだった。倒れても知らないぞ。

けれど、ひょっとしたら恐ろしく陽のあたらない家に住んでいて案外涼しいとか、標高が高いところに家が建っているとか、そんな可能性もある。と、自分の心をしずめた。

いずれにしても、これだけ暑いのだから体も相当しんどいだろう。よって私は、心がちょっぴり喜ぶアメを与えてどうにかこの夏を乗り切ろう。秋には秋の風が吹くのだし…。


2015.7.16

降り始めの雨

「降り始めの雨」は汚い。なぜなら、空気中のほこりを含んで落ちてくるから、と小耳にはさんだ。そうだったのか。

傘を持たずに出かけてポツリポツリ、ザーッと雨に降られたことが何度もあるけど、あれは降り始めの一番汚い雨を頭から浴びてたんだね。

またある時は、枕の三分の一はダニの死骸のようなもの、と聞いてショックを受ける。一気に自分の枕が信用できなくなった。絨毯、布団、至る所にダニがいるらしい。たしかにこういった寝具類はいつ替えるのか、とても曖昧だ。気がつけば結構な年数が経っているけど、見た目にはわからないから、まあいいかと使い続ける。

しかしある時ふと思う。ひょっとして自分はいい年をして不潔人間なのだろうか!?

むかし親に言われた台詞がよみがえる。

「こざっぱり、こぎれいにしなさい」。なんだかアンタはだらしなく見えるから、シャンとしない…と。

だから背筋をシャンと伸ばして枕カバーやタオルを目一杯洗濯し、一瞬サワヤカ人間になるのだが、そんな時にかぎって天気が急変し、ベランダの洗濯物を「降り始めの雨」が濡らしていくのである。


2015.6.30

スピード感

今年の半分が終了した。早いもんだ。

30才を過ぎた頃から「なんか1年あっという間だね」とよく口にするようになっていたけれど、当然あの頃よりスピード感は増している。年上の方からは、もっともっと1年は短く感じるようになるのよ、と説得力ある話…。

それから「あまり先のことは考えない」というハナシもある。この1年間を、この1カ月を、この1週間を、この1日を、いっぱい味わって過ごそう。それでイイ、それがイイ。

「味わう」っていうのは、せかせかしてなくて、強引でもなくて、なんだかイキで格好いい。欲張り過ぎは、ガツガツしてて押し付けがましくてカッコワルイ。

それで私も真似してオツにすましていると、「なんだか元気ないね、どこかワルイの?」なんて言われてガッカリするのであった。


2015.6.16

小さな喜び

最近たてつづけに2回も大幅な遅刻をしてしまった。しかも相手は2回とも同じ人物で、おまけにその方は早め早めに行動する誠実派。そんなイイ人に何度も迷惑をかけたことを深く反省。ダメな自分が情けなかった。

この遅刻にはどんな事情も言い訳もなく、約束の時間に私は、家のテーブルにうつぶせて眠っていた!! ホント何やってんだろう…。

若い頃は寝坊にまつわるしくじりや、眠くて眠くて電車やバスを乗り過ごし「ここは一体!?」と見慣れぬ土地まで行ってしまったことも多々あった。そうか、昔の私は寝過ごし魔で遅刻魔だったんだな。

しかし、ここ十数年、そんな記憶はほとんどない。久々の出来事だ。

それで、たいへん不謹慎ではあるけれど、深い反省とともに心の片隅に、小さな喜びのようなものがあったのです。 ちょっぴり若返ったような、自分の中のアホさが愛おしいような、不思議な感覚。

もちろん相手の方が「仕方ナイネ」とサラリと笑顔で流してくれたので、こんな寝とぼけたことを言っているのだけれど…。


2015.5.26

グッタリ・その2

連日の夏日にグッタリ、その2。

登山ですか!? というほど大きなリュックをしょってるのに、自分の背後にまるで無頓着な人はいいなァ…勝手気ままで。

特に電車の中、そしてラッシュ時、チビの私はそのリュックで顔がつぶされ呼吸困難になっているのに、当の本人はツレと世間話してやがる。けれど、どうすることもできないこのツラサ…。

さほど混んでいない時でも、急に方向転換されて、リュックがバーンとあたってきたこともあったっけ。それでも「スイマセン」の一言もないやつがいるんだナ。

世の中には、こういった鈍感な人がたしかに存在している。悲しいナ、そしてアブナイです。

駅のエスカレーターや階段の上がりきったところで突然止まる人。あなた一人の行動が、そのうしろに続く人々の安全をおびやかしているのです。

だけど私だって無意識のうちに、誰かに迷惑かけているかもしれない。大きなことは言えないけれど、せめてせめて自分のまわりは見渡していこう。そこそこ道のはじっこ歩いてますんでよろしくです。


2015.5.25

グッタリ

連日の夏日にすでにグッタリ。そんな中、つくづく思う。

自転車の人はいいなァ…自由きままで。歩行者でもなく、かといって車のルールを守るでもなく、我が物顔で走り抜けてゆく。

おつかいの帰り道、重たい荷物をぶらさげて歩道をせっせと歩いているのに、後ろから「邪魔なんですけど」のオーラ全開でチャリが抜いてゆく。

「歩道は降りて、手で押して通行しましょう」と電柱に貼ってあるけど、知るわけないよね。

ルールはともかく、人としてもう少し気を遣ってくれたら、「お互い様」って思えるのに…。


2015.4.23

エン

あれから10日が経ち、ついに新しい洗濯機がやってきた。

結局、パーツの在庫すでにナシ! という結論。迷う余地はなかった。しかし突然の出来事に心は乱れ、クタクタになり、私の中の膨大なエネルギーが洗濯機のことに使われてきた。

そしてやっと、新しい洗濯機が午前中のうちに無事設置され、リスタートを迎えている。とにかく前向きな気持ちを取り戻そう。

ここまでたどりついたからこそ、実感していることがある。それは「エンがある」とか「ない」とかって、こういうことなんだ、ということ。

前の洗濯機は、見た目上、何一つ問題なかった。自分も決して雑には扱ってこなかった。この先まだまだ使うはずだった。なのに…。要はエンがなかったのだ。エンとかサダメってあるんだな。私がどんなに思いを巡らし行動してみたところで、ある日唐突な現実が訪れ、途方に暮れる。

でも、大切なことは、ここでそのエンやサダメをどう解釈するか。再スタートするのには、自分に都合のいい解釈をした方がいいのだろう。

この新しい洗濯機とは、いつまでエンがあるのだろう。それは誰にもわからない。それが未来。

人間の私には、エンもサダメも未来も何もわからない。だからこそ、今日はきちんと洗濯機と向き合い、挨拶をしよう。

今日からヨロシク!!


2015.4.11

いつもとちがう朝

朝、いつもの朝。だけどいつもとちがう。

なぜって、突然洗濯機が動かなくなったから。買って5年。まだピカピカでキズひとつない美しい姿。一体どうしたというんだ!? 何もわからないまま仕事に出かけた。

夕方もどって、いつもの調子でスイッチをピッと押してみた。…でもやっぱり無反応。みためは何も変わらない。だけど故障したんだ。それが現実。どこかの部品がとれたとか、コードが切れたとか、私にわかるような故障ではないらしい。

ダンナが言うには「スイッチのキバンじゃないかな」。その「キバン」さえとりかえれば、すぐ元にもどるような口調だ。

だが続けて「パーツあるかな」とか「パーツ代、修理代…今時いくらだろう」とか、不安なフレーズが続き、するとまた「5年くらい前だったらパーツあるだろう」と、ダンナのいい方ひとつで私の心は上がったり下がったりしたのだ。

ここで私が「どっちなのよー!!」と爆発したところで、ダンナは「何が? ただ現実を言ってるだけだけど!?」と返してくる。

…くやしいけれど仕方ない。私には対処すべき基準が何もないのだから。私はだまって洗面器をとりにいった。そして一人、靴下やパンツを手洗いすることにした。

うすらさみしい春の夜だった…。


2015.3.18

春が来た

モヤッとしていてうすら暖かい。眠いようなダルいような、そんな朝。春ですナ。厚いコートはもう野暮ったい…でもまあいいか、と外へ。

お花屋さんは一段と花やいでいる。色とりどりの花々を横目で眺め、午前中にフラリと喫茶店に行く。なんて贅沢で素敵なことだろう! 私の大好きなひととき。

そこで煙草を一服。働く人々のハツラツとした表情、イキイキとした空気。その風景を眺めているとき、心が幸せでいっぱいになる。コーヒーカップの中のミルクがクルクルとうずを巻いて少しずつ崩れてゆく。このひとときはもう二度とない…と思うと、とても愛おしい。

♪春がき〜た〜春がき〜た〜、と心の中で歌う。山に来た、里に来た、西荻にも来たんだネ、とうれしくなった。


2015.2.27

三色

明日で2月も終わり…。スーパーは、雛祭り用のお菓子や飾りつけでとても春めいていた。 ところで、雛壇に飾られる「ひしもち」、あの三色には意味があると知った。

一番下の白は雪の大地。真ん中の緑は新芽・芽吹き、そして、上の赤(桃色)は生命(いのち)なんだそうだ。三色とも、どぎつくない、淡く美しい色、やさしい、やわらかな色だ。

そういえば同じ三色でイタリアの国旗。こちらは白がチーズで緑がバジル、赤がトマトと聞いたことがある。いわゆる俗説だが、こちらの色は鮮やかで、実に生き生きしている。

最近心ひかれる色はアズキ色のちょっと黒寄りとか山吹色とオレンジの中間とか、そんな色。ブラックオリーブや色合いのちがうチーズを眺めているとき、なんともイイ色しているネ、と思う。

と、ひと通り色を楽しんで実生活に戻る。スーパーに来たのは、納豆と食パンと玉ねぎと洗剤を買うためであった。


2015.2.16

物事の表と裏

手作りチョコって、なんだかけなげでカワイイねと人に話してみたら…。

真っ向から反対意見が出た。

それが「初告白」の意味合いがあるのなら、のっけから「手作り」はやりすぎだ、というのだ。重たい、不気味、思い込みが怖い…。ウーム。

贈る方も贈られる方も、それまでにある程度コミュニケーションがとれていて、それなりの“見込み”と信頼感がある上で「手作り」にいくべきだというのだ。ナルホド。ソノトオリデス。

物事を進める順番。ここが大事である。

いつもフラットに物事の表と裏を察知できる人に、私は憧れるのであった。


2015.2.14

溶かして、再び固める

今日はバレンタインデー。この一週間、テレビも街もチョコやスイーツの大売り出しだったが、今日が千秋楽である。

私は若い頃からお菓子作りにはとんと興味が持てず、バレンタインデーに「手作りチョコ」を贈った記憶はない。固まっているチョコをわざわざ溶かして、再び固める。その作業に何の意味があるのか? むしろ少々バカにした心持ちであった。

けれど今年はちがった。

手間ひまかけるところに人の想いがある。単純にステキなことだ。相手がその想いを受け入れてくれるかどうかはわからないけれど。恋に限らず、自分以外の誰かのことを思うとき、心はじんわりあったかくなれる。

昔はちっとも気づけなかったことが、いっぱいいっぱいあるんだナ。


2015.1.20

アマグッサイ

トイレットペーパーを買い忘れ、深夜にコンビニへ。つなぎとして4ロール(いつもは12ロール)を買ってきた。

さっそくあけると、それは「香り付き、ガラ付き」。セットした途端ロマンチックな気分に…。甘い香りがして、ちょっと優雅でもある。「まあ、高いしね」とダンナと言いながらも、ぜいたく感がありイイ気分だ。

次の日の朝、いつものようにトーストとコーヒーでごちそうさましてトイレに行くと、すごく変だ。思わず顔をしかめた。なぜかと言えば、ダンナが用をすませた後で甘臭かった。

アマグサイ…、それは混ざってほしくない香り。透き通るような美しい色に濁った絵の具を一滴たらしてしまったような悲しみが襲った。

ファンタジーははかないもの。

次はいつもの12ロール・香り無しに戻ろう。

これはこれでアマグッサイ思い出となった。


2015.1.16

二度目の…

おつかいの帰り、ポストをのぞくとハガキが一枚。手に取るとそれは年賀状だった。五年に一枚くらいの割合で、今頃届く年賀状がある。

送り主は知り合いのオジさん。もう三年近く会っていなかった。定年までは東京にいたけれど、その後ふるさとの富士山のふもとに帰ってしまった。

このオジさんとは「コーヒー仲間」である。オジさん行きつけの小さな喫茶店があり、そこをおしえてもらってから、私も必ず月に一度は訪れている。

「あのコーヒーの香りが懐かしい…」と一筆添えてあった。

それならばコーヒーを飲みに出てくればいいじゃないと無責任に思ったりするが、なかなかそうもいかないのだろう。私だって、気にはしているけど行動にうつせていないなんてことが山ほどあるじゃないか。

と、しばしオジさんの思い出にひたっていて、ふいに「アレ!?」と我にかえった。

たしかオジさんの年賀状は一月二日に届いていた。そこにも同じようなことが書かれていたような…。さっそく今年いただいた年賀状を全部一枚一枚見直していくと…ああ、やっぱり…。

これは二度目の年賀状であった。メデタシ、メデタシ。


2015.1.2

形だけなら必要なし

2015年がスタートして二日目。

年末に感じたとおり、今年は一切、お正月用品を買わなかった。

私は思う。誰でもかれでも、なんでもかんでも飾ればいいわけじゃない。むしろ飾るべきじゃない。そこに「心」がある人達がやるべきだ。

たとえば年末年始、旅行に行ったりして家をあける人は、「形だけ、とりあえず」ってな気分でやるくらいならやる必要なし! 年神様に失礼である。

そんな心持ちでものを買ったり捨てたり消費したりする時代はもう終わったのだ。本当はとっくに終わっているのに、ふんぎりがつけられないだけだ。

きたるべきバレンタインデーには、本当に恋心をうちあけたい人間だけがチョコレートを買って贈るべし!


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