2014.12.31 夜

「紅白」を「紅白」にしてくれる人達

「紅白歌合戦」をみた。私が生まれた時にはすでに始まっていて、中年になった今現在まで「紅白」はずっとずっと続いている。

子供の頃、こたつにもぐりこんでみた「紅白」。中学生の頃はアイドル見たさに見た「紅白」。でもそれ以降の記憶はほとんどない。興味もなくなったし、テレビ自体さほど見ないという時期もあった。

でも今日はちゃんと見た。

「紅白」ってどう見たらいいんだろう? その答えをみつけたくて見ていたら、最後まで見てしまった。知らない曲もいっぱいあった。連ドラのこともよく知らないし、司会の女優さんも大変そうだった。

このカオスの中、心をグッとつかまれたアーティストがいた。

和田アキ子さん、薬師丸ひろ子さん、松田聖子さん。ベテランの方々が心をふるわせて歌っている姿。この方々にとって「紅白」は本当に特別なんだ、というオーラがひしひしと伝わってきて、かたずをのんでテレビに集中した。

そしてもう一人。天童よしみさんの歌は圧巻だった。

こういった方々が「紅白」を「紅白」にしてくれているんじゃないのカナ? だって「紅白」以外では見られない姿を見せてくれたんだもの。

きっと「紅白」に対して、さまざまな意見があるだろう。「紅白」は「選挙」と似ている。それは国民をうつす鏡。

気づけば画面は「ゆく年くる年」になっていた。あと少しで年があけようとしている。


2014.12.31 朝

きらめく星座

一年最後、締めくくりの日の朝、いつものようにテレビの「今日の占い」をみた。

するとそこには信じられない光景が…。

やぎ座がなんと1位! 燦然と輝く1位であった。

思えばやぎ座はむくわれないことが多く、じゅんぐりまわってくるであろう1位がめったに訪れることもなく、10位〜12位の常連であった。

それでも「きっと明日こそ…」と希望を捨てず、逆ギレすることもなく、ほそぼそと自分を支えてきた。

だけど今日ほどむくわれたことはない。今日ほどうれしいことはない。だって今日は大晦日。終わりよければすべてよし!

そしてそして、今日は私の誕生日なのだから。


2014.12.25

繊細な人たち、大ざっぱな私

自分は大ざっぱな人間だと思う。とくに最近、ひどくなっている。

たとえば「味つけ」。

塩、コショウ、しょうゆ、バター、マヨネーズ、にんにく…どんどんどんどんエスカレートしている。いっとき、「うす味でヘルシーに!」なんてもっともらしいことを言っていたくせに。

「今夜はクリスマスだから…」

ケーキが食べたい、ローストチキンが食べたい、なんかごちそうが食べたいヨォ、とガツガツしてるけど、ごちそうを食べるためにクリスマスが始まったわけじゃない。

部屋も心も一年のスス払いをして、整理整頓、スッキリしているか、といえば…もちろんできていない。なのに鏡もちや玄関のお正月飾り、どれにしようカナ〜ナンテうかれてみたり…。なんだかやってることが大ざっぱで表面的だよね。

だけど去年はこうしてお正月用品を準備している自分に、まともな大人になってきたかも…フフフ、と思っていた。

何故だろう? 去年とはまるで気分が違う。だが人は変わる。年を重ねて、心も体も変化する。そして人は同じままではいられない。

世の中で「職人さん」と呼ばれる人たちは、経験を積んでどんどんレベルアップしてゆく。それは繊細になってゆくということ。ちょっとの違いに気づける人たちである。

なのに私は年とともにだんだん大ざっぱになっているような気がする…ムムム。


2014.11.30

紅葉の写真

知り合いの女性の方が「紅葉の写真をとってきたの」といって、きれいな写真をたくさん見せてくれた。

「スマホ」ではなくて、ちゃんと現像して、お気に入りのキッサて店で自分なりに構成を考えて一枚一枚ていねいにはりつけて一冊のアルバムという形に作り上げていた。

私は手にとってゆっくりながめた。

紅葉をみにでかける、それは今しかない。そんな、ライブ感あふれる衝動にかられたのだそうだ。私もその心境がわかる気がした。

年賀状も発売されましたネ、と世間話をしていると、彼女はおもむろに「年賀状の子供の写真…いいんだけど…」といった。もちろんシンプルに子供はかわいい。けれど、私は親戚でもおばあちゃんでもないのだから、できることなら友人自身の写真や近況、言葉にふれたい、といった。

その心境もよくわかる。一度も会ったことのない子供や何かの集まりみたいな写真は、何だかさみしくなるのも事実。

独身なのか、子育て中か、若いのか年配なのか、人の思いもさまざま。

「相手の立場になって考えろ」と小学生のときおそわったけれど、今、自分ができているとも思えない。

ところで紅葉の写真は自然の風景ばかりで人物はうつっていない。「私ここに行ってきましたー!!」といいたいわけではなくて、どこにも行けない状況の人がこの写真をみて、ほんの少しでも紅葉狩り気分になってくれたらうれしいナァ、と彼女はいった…ステキです…。


2014.11.8

何かの都合

最近よくきくことば、「スムージー」。

フルーツや野菜をミキサーにかけた飲み物のようだが、ジュースといわずスムージーっていうんだよね、ふ〜ん。 「ボジョレーヌーボー」は去年の今頃、ボのあとをのばして「ボージョレ」となっていたけど、今年はもとにもどって「ボジョレー」になっていた。(近くのスーパーの商品名のハナシ)。

それからインナー、アウターということばも使ったことないのに、いい年して突然「いつもいってます」の様でくちにするのは本当にはずかしい。だけど人との会話では、そこでつまずかないようさりげなく言ってみたりしている。

こんなふうに、そんなことば急に言えますか、という単語がどんどんふえて、テレビのCMも何のCMだかよくわからなくなり、立派な年配者になってゆくのだろう。

それはそれでかまわない。

今までもそしてこれからも、何かの都合にふりまわされながら一日一日くらしてゆくのだろう。


2014.10.23

豊かさと貧しさ

お財布にお金がある程度入っていると節約できる。冷静に必要なものだけ買い帰宅。平常心。

お財布にお金がギリギリ入っていると、ついでにこれも買っておこう、あ、まだ500円くらい余るからこれも買っておこう、と余計なものまで買い込んで帰宅。ちょっぴり無駄遣いしたかな、でもまッ、イイか、とおちゃめな心。

お財布にほとんどお金が入ってないと、あれもこれもそれも必要なのに買えないじゃん! ムムム、とゆがんだ気持ちで心は一杯。

お金がなければないほど、あれもこれも欲しいと思い込む。

心が豊かであるとか、心が貧しいとは、こういうことだろう。


2014.10.22

できないのならやめとけ

今週からグッと寒くなった。ついこの間まで冷房だったエアコンを、もう暖房にして使っている。寒くなると、それだけでさみしいような悲しいような、みじめに気持ちになってくる。ましてやお腹が空いてくると、その気持ちに拍車がかかる。

そんな気持ちでおつかいに行くと、「今夜はシチューだ」という気になる。お味噌汁ではなくてシチューだったら、ご飯を炊くのもやめてバゲットを買うか。だったら普段買うこともないクリームチーズとか買ってみようか、と、どんどん非日常な食材へ惹かれてゆき、とんでもなく予算オーバーしてしまう。非日常なスパイスや食材には気をつけろ!! と思っていたのに。

多少高くても、ちゃんと使い切る力が自分にあるのなら買えばいい。ちゃんと美味しく料理できるなら買えばいい。できないのならやめとけ、というハナシ。


2014.10.16

神(紙)様のお告げ

この二日間、不思議な偶然が私の身にふりかかった。

朝、トイレに行くとトイレットペーパーがほとんど終わりかけていて、これじゃ足りないなと新しいものと交換。

昼過ぎ、喫茶店に行くと、そこのトイレでも終わりかけのトイレットペーパーに遭遇。新しいものと交換。

夕方、スタジオに行き、そこのトイレにいくとやっぱり終わっていて、並べてある新しいやつをセット。

夜、ファミレスに行くと、ホルダーが2コもあるのに、やっぱり2コとも終わりかけだったので、ひとつだけ新しいやつをセットして出た。

都合4回、よくセットしたな、と思ったのが一昨日。

でもこれで終わりじゃなかった。

昨日は午前中に入った喫茶店で1回、昼お仕事で行ったお店のトイレで1回、夕方行った別の喫茶店で1回、夜は、とあるビルの中で入ったらそこで1回。やはり都合4回、私はトイレットペーパーをセットすることになった。

たいして大変な作業ではなく、カチャンとはずして芯を捨て、カチャンと新しいのをはめるだけだが、こう度重なると少々不思議な気持ちになる。まあ、この行為は人としてごく当たり前のことだろう。騒ぐほどのことではない。だがひょっとすると何か神様のお告げだったのだろうか?


2014.10.8

ミドリのオジサン?

午前10時の青い空。心地よい風。まずはクリーニング屋さんに引き取りに行くか、と私は元気良く家を出た。いつものおつかいコースとは反対方向にあるそのお店には、あっけなく到着。ムムム、何だか歩き足りない。私は店を通過して、しばし散歩することにした。すると、次の次の横断歩道に立っているのは「みどりのおじさん」。

年配で、優しさと厳しさを兼ね備えたその表情に、私の心はハッと引き締まった。ほとんど車も人もまばらな道で、当然信号機もない。普通ならそのまま渡り切っちゃうけれど、なにせミドリのオジサンがじっとこっちを見ている。

私は現実的にはオバサンだけど、思わず童心に帰って「気をつけ!」の姿勢をとり、背筋をピンと伸ばして、「良い子感」をアピールした。そして、ミドリのオジサンが安全確認をし、黄色い旗をバサッとやったら、軽く頭を下げ「ごくろうさまです」と演歌歌手のように小さくささやきながら通り過ぎてゆこう、とイメージした。

ところが、いつまでたってもオジサンは旗をバサッとやってくれない。どうしたの!? 車も人も何にもこないのに、何故いつまでも二人だけの時間が流れているの?! しびれを切らした私は、冷静におじさんを見た。

よく見ると、年配者というより「おじいちゃん」といった年頃で、小柄でかわいらしささえ感じる。それにじっとこっちを見てはいなくて、やや顔を上に上げ、空を見ている。私は意味が分からなかった。休憩中? とにかく今は、ミドリのオジサンのユニフォームをまとったおじいちゃん状態であった。よく考えれば、こんな中途半端な時間に登下校する子供たちなんていないだろう。

結局答えは分からない。ニセモノなのか、本物の休憩タイムだったのか。


2014.9.5

トイレ休憩

久々にダンナと二人で善福寺公園まで散歩することになった。夕方4時出発、2時間ほどで戻ってこよう。

するとダンナは、そのあたりの地図を拡大コピー(老眼の私のために)し、「こう行って、ここを曲がって、このコースで行って帰ってこよう」と言ってきた。珍しく計画的である。

散歩といっても、二人で手をつないでとか、楽しくおしゃべりして、という訳ではなくて、ダンナの決めたそのコースに従って無言で歩く形となり、「何かの訓練か!」というムードだった。

ダンナのテキパキとした行動に、たちまち息が切れ、汗がふきだす。おまけに公園の近くで雨がパラパラ降ってきた。その上、私はトイレに行きたくなってきた(※大ではありません)。するとちょうど公園のトイレが目の前に!

トイレ休憩を要求すると、ダンナも行きたいとのこと。覚悟して入ってみると、案外キレイで紙もちゃんとセットされていた。ヤレヤレ。しかし雨はどんどん降ってくる。どうしよう。

トイレ横の屋根のあるベンチで様子をうかがっていると、私はいつのまにか蚊に刺されてしまった。あ! こっちもそっちも刺されている。ヤバイ、デング熱!!

代々木公園の蚊は中央線か総武線に乗って、きっとこの善福寺公園にも来ているにちがいない。あせってペチペチと自分の腕や首すじを叩いていると、隣りでやはり雨宿りされていたご婦人に、「これ使って」と薄茶色い液体を渡された。「何でしょう!?」すると、これはお手製の虫刺され薬で、これを塗れば、たちまちかゆみはなくなるとのこと。なんでもヘビイチゴの葉で作ったと仰って、その小さな容器を渡してくれたのである。

気さくでありながら、どこか品のあるそのご婦人は、とてもフラットに声をかけて下さり、私は素直にありがたく、その液体を手のひらにとらせていただいた。そしてペチペチ叩くように塗ってみると、たしかにスッとしてきた。すばらしい!

きっとこのご婦人はガーデニングとかやっているにちがいない。ということは一軒家でお庭もあり、昼下がりにはハーブティーなども飲んでいるにちがいない。この善福寺の一帯にはおそろしく豪華なおうちが並んでいたりするけれど、そんなおうちの方にちがいない。

「あなたは大丈夫?」とダンナも声をかけていただいた。しかしダンナは刺されていないのである。「A型の人は刺されやすいらしいわ」とご婦人がおっしゃる。私はそのA型であった。

やがて雨があがってきた。また訓練のような帰路だ。どこか優雅なトイレ休憩であった。


2014.9.3

一人ひとりの小さな事情が重なって

先日、スーパーのレジで並んでいると、私の前にいたおじさんが突然後ずさってきた。

「エッ!?」と驚いた次の瞬間、私は「イタイッ!」と声をあげていた。おじさんの足が私の右足をムギューと踏みつけていたのだ。「何すんだ、コノヤロ〜!!」と心の中で叫ぶ。しかしおじさんもビックリしたらしく「ごめんなさい」とか弱い声で言ってくれた。だが私は痛くて「イツーーッ」と怒り気味の声しか出せなかった。

痛みが治まった頃「大丈夫ですよ」と言うのも間が悪い。おじさんもたった一回ごめんなさいと言っただけで、後はかたくなに背を向けたままだった。

落ち着いてみると、こういうことだろう。

おじさんは、あと3、4人で自分の番というところで、「ハッ、◯◯を買ってない」と不意に思い出したのだ。それでなんとなく後ずさってしまった。しかもそこにいたのは、私のようなチビ。存在感が薄かったのだ。お相撲さんのようなデカイ人か、攻撃的なオバちゃんのオーラが放たれていれば、おじさんは無意識にも後ずさることはなかった。

そんなわけで、私は運悪く右足指をムギューとしっかり踏みつけられてしまった。

私の右足は外反母趾である。前日履いていたヒールの影響で、実に右足痛いなァと思っている真っ最中だったのだ。

こんなふうに、一人ひとりの小さな事情が重なってしまった。絶妙なタイミングで。

〜夕暮れ時のレジの列にて…。


2014.8.31

噛まない暮らし

とても涼しい夏の終わり。

もし私が今、小学生だったら…。このどんよりグズついたお天気に、終わりの見えない夏休みの宿題。どれほど切ない思いをしているだろうか。

しかし、大人の私はこの涼しさにホッとしている。体もラクである。

振り返れば、今月の幕開けは突然の「歯痛」で始まった。市販の鎮痛剤でごまかしながら暮らしていたけれど、もうダメ…ついに長年の沈黙を破って歯医者さんへ。思えば定期検診のお葉書を無視し続けたあげく、この有り様に。虫歯もあり、歯石もあり、炎症もあり、歯茎の高さも変化するらしく、噛み合わせも噛み合っていない結果、このようなヒドイ状態になったようだ。

そうめんに引き続き、豆腐とかひき肉とか、「噛まない暮らし」が続くのであった。


2014.7.29

案外、夏は

アツクテアツクテ、おかしくなりそうだ。

なんだか軽いめまいとかフラつきを感じるけれど、暑さなのか、更年期的なことか、貧血かわからない。自分の状態がよくわからない。水分補給だけはした方がいいにちがいないと思い、ひたすらまじめに水を飲んだりしている。

それでも、夏と冬どっちが好きかときかれれば夏と答えるかもしれない。それは、このだらけたムードが案外好きなのと、冬のきびしい寒さよりは、人々が「ホントに暑いわね」と口に出して挨拶しあっている風景が好きなのだと思う。

どうせエアコンをかけて一人部屋の中にいるのだったら、喫茶店に行ってアイスコーヒーをすすりながら本を読んでみるのも悪くない。

案外、夏は引きこもり的な私を外に連れ出してくれる時もあるんだナ。


2014.7.22

そうめん

ここのところ、立て続けにそうめんばかり食べている。しかも“寝しな”に。

パスタとちがって1〜2分茹でて完成だし、水にさらしているのも冷たくて気持ちよい。だから、しのごの言ってないでサッと作ってサッと食べて寝ればいいんだよ、ということになる。薬味だってあるもんだけでいい。ネギ、シソ、ミョーガ、なくたっていい。とりあえずチューブのわさびならいつでも冷蔵庫にある。それをすすって録画しておいたのんきなテレビ番組を眺めていると、なんとも幸せになれる。

幼い頃は、夏休みのお昼に母と二人でそうめんを食べた記憶がある。その時は、ちゃんとガラスの器に盛ってくれて、氷といっしょに缶詰のミカンとかチェリーが飾られていた。そしてあの赤と緑のたった2本しか入ってない色つきのそうめんがとても大事だった。

それにしても、子供相手に手を抜かず、涼しげで可愛らしいそうめんを演出していた母は偉いじゃん、と思う。

夏にそうめん。日本人で良かった。


2014.7.4

あの頃あたり前だったこと

昨日の夕方、西荻のとある喫茶店で友人とあった。

一年ぶりの再会にひとしきり盛り上がり、ひと段落したところで私はトイレに行った。すると、戻って来た私に彼女が突然タバコを一箱プレゼントしてくれた。私はタバコが好きである。

「ありがとう。でもなんで急に?」

彼女曰く、「これね、たった今ここで買ったの。今どき、喫茶店でタバコが買えるってめずらしいよね」

言われてみれば、そういえばついふた昔前までは喫茶店で、ごく自然にタバコが売られていたように思う。今では、コンビニでタバコを買って喫茶店へ、というコースに慣れてしまい、すっかり忘れていたけれど。その上、自動販売機もカードがないと買えないシステムになり、よりいっそうタバコの在庫が気になる暮らしになっていったっけ。

こんなふうにくつろいでコーヒーを飲んでいて、タバコがきれたら「すみません、マイルド◯◯◯下さい」と言うと、お店の人がすぐにもってきてくれて現金と引き換える、というのは今思えばとてもぜいたく感のあることであった。

あの頃あたり前だったことが、すっかり姿を消していることが多い中、こういった空間がこっそり残っていて、何だか嬉しかった。


2014.6.30

にわか

ワールドカップの影響でにわかサッカーファンになった。残念ながら日本はすでに敗退してしまったが、楽しませてくれたことに「ありがとう」と伝えたい。

サッカー選手とかスポーツ選手というのは、とても時間を意識して生きているものなのだと思った。4年前、4年後、その時の体力・気力など、いつも将来のことを考えている。

私は今まできちんと将来を考えたことなどない。ただ不安がって、「ああ、この先私の人生はどうなるんだろう」と思うことはしょっちゅうある。

たとえば夏休みの宿題を、計画性をもって処理していける子供と、まるで無計画、ただ先延ばししている子供。当然のように私は後者。

スポーツ選手に限らず、何をやるにも自分を律して生活していける人ってすごいな。

さて、これからワールドカップも佳境に入る。もう少しの間、「にわか」を続けてみよう。


2014.6.25

どちらも捨てがたい

つい先日の出来事。100円でコーヒーが飲めるファストフード店の喫煙ブースが終了してしまった。つまり全面禁煙となった。……残念である。

そこには時折、深夜に訪れ、コーヒー&一服を楽しんでいたから。深夜の常連さんもいるようだったが、あの方々はこれからどこへ流れていくのだろうか。

街がきれいになり、タバコを吸わない方や子供たちに迷惑をかけないという点では、こんなふうに喫煙者がどんどん片隅に追いやられることはイイ事である。しかし一方で、コーヒー&一服をゆっくり楽しめる空間もどこかに残しておいてほしいなあ。私のような人間もいるのです。

話はそれるけど、よくある質問に、「お酒とタバコ、やめるならどっち?」というのがある。この2つ、なにか「悪」の代表格ということだろうか。また、「イヌとネコ、どっちが好き?」とか、「パンとごはん」「ラーメンとそば」など、必ず引き合いに出されるものがある。何を意図している質問かは謎だが、訊かれると「う〜ん」と考え始める。

そういう時は、どちらも捨てがたい時、どちらもいいじゃん、と思っている時である。


2014.5.29

衣替え

5月というのは長く感じる月である。

ここにきて夏日が続き、すでに夏気分。夜風はまだ冷たい、と感じていたゴールデンウィークの頃は遠い昔のようだ。

とはいえ来週は「衣替え」。

まあ、替えるほどの衣類があるわけじゃないけれど、クリーニングに出すべきジャケット類が少々ある。中はボロでもジャケットを羽織ってしまえばバレないと思っていた季節は終わってしまうのだ。いや、とっくに終わっているのに私がただノロノロしていただけだろう。

私は「先取り」したり、世間の流れを把握して流行を取り入れることがまずできない。そのことを時には深く気にするし、時に「どーでもいいじゃん!」と思う。そんな融通のきかない人間だけど、いい点は最新のものを欲しがらないこと。そのことで人をうらやましがることはまずない。わりと「ウチはウチ」と思っている。ダンナはこだわりの強い人間だけど、それは仕事に対してだけで日常には無頓着だから、その点も相性はいいようだ。

私は広い家になんか住みたくない。広いと掃除も大変だし、広さに見合った家具を揃えようという気持ちになってしまう。そのワナにははまりたくない。狭いけどのびのび感があって、風通しが良く、掃除や収納が簡単ラクチンなのが理想だ。

今もじゅうぶん狭いけど、のびのび感はないし、まだまだ物が多くて、掃除も楽ではない。この衣替えを機にひとつでも片付けができるといいな。


2014.4.29

小さな旅

昨夜は久しぶりに夜の散歩に行った。スーパーと家を往復するばかりの毎日。ゆっくり呑気に歩いてみよう。

PM10:20出発。駅周辺はまだにぎわってザワザワしていた。けれどちょっと住宅街に入れば、そこは驚くほど静か。昼間の穏やかさは夜になるともの淋しげだった。

私は黙々と歩く。そして三、四年前のことを懐かしく思い出していた。あの頃の私は体調不良と憂鬱な気分を改善したくて、ダンナに付き添ってもらい、よく深夜の散歩をしていた。誰もいない深夜の住宅街、それはほんのり心地よく、「これってコーネンキなの!?」と苦々しい思いで過ごしていた私の心を一瞬解放してくれる。

この辺りまで歩くのは、あれ以来だろうか。しかし今私はこうして一人で歩いているのだから、少しはマシになっているんだな。

さらに散歩は続く。ところどころにポッカリと空き地を見る。たしか、古めかしい家があったところ。いつのまに……。さらに驚いたのは、新しい高級マンションが立っているところもあった。この辺り一帯全部変わってしまったんだ。何だかショック。

一体そこには何があったのか、どんな暮らしがあったのか。ある日、ある時気づけば、そこは私の知らない世界に。

順繰りと、古いものは新しいものに、新しいものはやがて古くなり…。ごくごく当たり前の自然なことだけど、何だかやっぱり淋しいな。

夜の散歩のゴールは、100円でアイスコーヒーを飲めるところに行ってタバコを一服、と決めた。再び駅方面に向かって歩き出す。でもきっとあそこは混んでいるだろう。若者が大声で喋っていたり、スマホ的なものを手にした人たちばかりで、変な宗教みたいな空間になっているかもしれない。

タバコ好きが言うのもなんだけど、煙の充満したあの一角は「悪」という字がお似合いである。…と覚悟して行ってみると、意外にも喫煙ブースはガラガラだった。あー良かった。それだけでホッとする。私はタバコの煙をくゆらせながら、チューッとアイスコーヒーを飲む。足先が少しジンジンしている。だんだん心が落ち着きを取り戻す。

今夜の散歩は小さな旅みたいだった。


2014.3.31

とにかく春は

とにかく春はやって来た。

しぶとく雪が降って、桜はなかなか開かなかったけれど、ここにきて一気にお花見モードになった。もう、あの体にこたえる寒さにもどることはないんだナ、ちゃんと春になったんだナ。ああ、アリガタイ…。

ところで、昨日と今日、よりいっそう街がざわめいて、何だかいつもとちがう。それは春だから、お花見シーズンだから、と思っていたら、これまたもうひとつ理由があるらしい。

それは、「最後の買い出し」。

ナルホド、いよいよ明日から8%の暮らしが始まるんだ。ティッシュや調味料やお米やらをせっせと買い込んでいる人たちがいるんだ。

昨日はバスに乗って電車に乗って、小平方面に出かけたけれど、210円でバスに乗ったのは昨日が最後だったんだ。そうだったのか…。

とにかく時は流れてゆくんだネ。


2014.3.30

花粉症的な人間

今からちょうど2カ月前、私の「咳」が始まった。それはどんどん悪化して、咳き込むようになった。咳止めの薬を買って、真面目に飲み続けたけれど良くならない。

1週間経って、周りの人から「デビューしたんじゃない? 花粉症」と言われた。咳き込むと鼻水が出て涙が出て目が赤くなって、いかにもそんな感じである。しかし、くしゃみはほとんど出ない。本当に花粉だろうか。

とにかく「何か」にアレルギー反応を起こしているのだ。次の日からマスクをして、日常を過ごすようになる。こうして私は、花粉症的な人間になった。カバンの中にはティッシュやアメを常備する。「今、咳き込んだらどうしよう」と内心ヒヤヒヤしながら電車に乗る、人と話す、夜、床につく。朝はテレビの「今日のうらない」と花粉情報をチェックし、目に見えぬ何かに警戒しながら一日が始まっていく。

「今日は黄砂やPM2.5にもご注意を」とお天気キャスターが普通に言っている。ああ、いつからこんな時代になっていたんだっけ!?


2014.2.14

大雪・その2

東京は二度目の大雪。テレビはソチオリンピックでもちきり。私はテレビにくぎづけ。再び食料を買い込んで、風雪をやり過ごそうと決め込んだ。

しかし、冬季オリンピックの競技はどれも、危険と隣り合わせである。フィギュアもジャンプもスーパー大回転もスケルトンもハーフパイプも、なぜあんなことできるの!? という驚きと同時に、一瞬のアクシデントで大事故につながるのでは、というヒヤヒヤ感で、時おり「あっ、アブナイ!」などと声が出てしまう。

そう叫んでいる自分を俯瞰して見れば、はんてんなど着て厚手の靴下をはき、コーヒーにお菓子の包み紙をまき散らし、ほとんど動くこともなく、トドのようにゴロゴロしているただのだらけた人間なのだ。そんなトドが、死ぬほどトレーニングを積んできた選手に向かって「アブナイッ」なんて、図々しいにもほどがある。

しかし、私はこういった時間にとても幸せを感じている。人間ってすごいなーと思う。それはもちろん、日本に限らず競技を戦っている選手の方々に感じること。そして外は大雪。雪国と化した杉並区の片隅で、自然には敵わないナーと感じている自分。敵わないことばかりだけど、「すごいなー」と思えることが世の中にはいっぱいいっぱいあるって、何だかステキである。


2014.2.10

大雪・その1

「近年まれに見る大雪、不必要な外出は控えて下さい」とのニュースに、私の心は不安におびえた。交通マヒ、停電もありうる。暗くて寒くて、激しい風と雪。もう部屋でじっと身をひそめているしかないのだろう。

私は大奮発して、大量の食料品を買い込んだ。うどんやパン、冷凍野菜、肉やソーセージ、切り身の魚や缶詰、マイバッグ3つ分くらいあっただろうか。大金持ちになった気分だ、オホホホホ。すると不思議なもので、不安はかなり解消した。

しかし、これだけでは収まらなかった。もっと安心したい、との思いから、お菓子やアイス、フルーツといった、日頃めったに買わないものまで、どんどんどんどん買ってしまった。

ああ楽しい。お菓子をこんなに自由な心で買うなんて、今までどれほどあったろうか。ぬくぬくとした部屋でオリンピックを見ながらお菓子をつまむ。お腹がへったら、いつだって何だって作れる。そして乾燥した部屋でサッパリしたければ、パインの缶詰だってアイスだってある。オホホホホ。夢のようだ。パラダイスだ。

こんな日に仕事をしている方、受験生の方々、申し訳ないと思うけど許してほしい。この大雪がとける頃、私は再びチマチマした節約主婦に戻っているだろうから。


2014.1.28

今年の運勢

年が明けて1月も残りわずか。

さて、今年の私の運勢は一体どうなっているのだろう。開運、運気上昇…こういった言葉に心がひかれてしまう。

信じる・信じないの問題ではなく、自分が頼りない性格だナ...と年々自覚できるようになったから、おみくじの言葉をありがたいアドバイスとして素直に受け取るようになった。

毎朝テレビの星座占いを見るのも同じ。「自分勝手な言動は慎んで」と言われれば、私は元来わがままだから気をつけなければ、と思うし、「ありのままのあなたを相手にぶつけてみてね」と言われれば、なるほど人の顔色ばかりうかがっていていつもビクビクしていてはいけない、時にはハラを割って…と思えてくる。

その日その日によって方向性はバラバラだし、神社であったり、星占いであったり、テレビで見た手相占いであったり。「何でもいいのか、節操がないな」と言われれば、「その通りです、ごめんなさい」と思う。

それでも私は心のどこかで、こんな自分がキライではない。

「ちょっとでも マシになりたい なにもかも」

心の中で念仏のように唱えている言葉である。


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